大日堂舞楽と行事の解説

籾押し(もみおし)

農作業を表現した舞

籾押しは、農作業の様をあらわしたものと云われています。小豆沢の青年多数によって奉仕される。頭に鉢巻、右手中指に五色の紙をつけ、半天を着て、黒ズボン、わらじを履き「ヨンヤラヤーエ」の掛け声と「ソリャーンサーエ」の受け声に合わせて舞われます。

神子舞(みこまい)

天の神にささげる舞

次に行なわれる神名手舞とともに能衆(舞人)全員が、一人づつ舞うのが本来の姿ですが、現在、本舞台では数人づつ舞います。各集落で舞うときもこの二つの舞を行なったあとに、それぞれの舞を行ないます。
天の神にささげる舞とも云われ、右手に鈴、左手に紙垂(木の柄に紙を切ってつけたもの)を持ち、鈴を振りながら両足を曲げ伸ばしをし(浮き沈みをしながら)舞います。

神名手舞(かなてまい)

地の神にささげる舞

地の神にささげる舞と云われ、左手に紙垂(木の柄に紙を細かく切ってつける)だけを持ち、両手を広げて上下させながら舞います。
神子舞・神名手舞は、本舞台以外にも何度も繰り返し舞われ、人から神へ化身するために舞うと云われています。

大小行事(だいしょうぎょうじ)

舞台を清め、豊作を願う

大行事・小行事と呼ばれる役の者が、大里と小豆沢から出て舞台の上で、唱えごとをして、お米とお金を四方に撒くもので、舞台を清めるとともに、豊作への祈りも込められた行事だと考えられています。

権現舞(ごんげんまい) 小豆沢

五の宮皇子の御霊を慰める舞

五ノ宮大権現の舞と云われ、獅子頭は権現様と呼ばれています。継体天皇第五番目の皇子が、五ノ宮獄に入山されて戻らず、その隣に聳える八森獄に龍がたなびき、里人を恐れさせたので、ご信託により、皇子の御霊を慰めるために獅子頭を奉納して、舞われるようになったと云われています。舞人が頭上に掲げて勇壮に舞い、子供が獅子の尾を振ります。舞の前に「待笛」と呼ばれる、神様をお迎えするための笛を吹きます。

駒舞(こままい) 大里

五ノ宮皇子の御馬の舞

吉祥姫の御馬と五ノ宮皇子の御馬の舞と云われるが、五ノ宮皇子が都を出る際に安閑天皇より賜った月毛の駿馬ニ頭の舞という説もあります。舞楽としては、他に記録に残るだけであるとされ、全国に伝承されている駒踊りの原型とも云われています。
この舞の駒頭は、御神体とされ、これを身につけるとどんな温和な人でも荒駒の如く勇ましくなると云われています。

烏遍舞(うへんまい) 長嶺

吉祥姫の墓固めの舞

古くは「ヲベ舞」とも呼ばれたと古い記録にあり、ヲベとは斧部のことで、そま取の舞とも云われます。継体天皇の御后、吉祥姫の遺体を葬る様を振り付けたものとも云われています。
六人の博士と呼ばれる能衆が、折烏帽子を被り、頬面(ほおめん)と呼ばれる面をつけ、右手に太刀を持って舞います。舞の最後に幸運が授かるという御守を撒いて、舞台を降ります。

鳥舞(とりまい) 大里

「だんぶり長者」の鳥の舞

舞楽の行なわれる大日霊貴神社の創建に由来する「だんぶり長者」夫婦が飼育していた鶏の遊ぶ様を舞にしたものと伝えられています。
三人の童子が、鳥甲(雄・雌・雛)を被り、雄が左手に鈴を持ち、全員が日の丸扇子を持って舞います。

五大尊舞(ごだいそんまい) 谷内

「だんぶり長者」と四人の家臣の舞

古い記録には『打越と装束に白布を冠り、袴、脚絆を着け、両部大日尊、四大明王の御面を懸け、(中略)五大尊の祭文声明を唱えて奏するなり。是大日神長者夫婦に化身給ひ、四大明王臣と成りて仕へたる舞楽なりといふ』とあります。だんぶり長者夫婦と四人の家臣の舞とされています。ただお面の扱いと唱えられる声明には違いがあります。

工匠舞(こうしょうまい) 大里

大日神の御神体を刻む様の舞

ばち党舞、土師党舞・番匠舞とも称され、大日神の御神体を刻む様を舞にしたものと云われています。
この舞の特色は、基本的に舞台正面に対して横一列になり、四人が場所を移動しながら入れ替わり、最後に元の位置に戻るもので、非常に動作もゆっくりしています。

田楽舞(でんがくまい) 小豆沢

「だんぶり長者」が農民を慰めた舞

だんぶり長者夫婦が農民を慰めるために舞わせたものと云われています。全国に残る田楽舞の中でも、最も古い形式を残していると云われています。
舞人は、小鼓・太鼓各一人とささら四人ですが、小鼓を持つものを特に天狗鼓と云い、この鼓が天狗から授かったことに由来しています。